イタリア旅行記

2007/05/18 〜 2007/05/25
by JA1FQA
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 旅行社のお仕着せツアーでイタリア北部を旅行してきました。

総勢35名の大集団でした。

行 程;
成田 => ミラノ => ベニス => フィレンツェ =_> ピサ => シエナ => フィレンツェ => アッシジ
=> ローマ => ナポリ => ポンペイ => ローマ => バチカン => 成田     追記、雑感


Googleの世界地図」から詳細な場所と、宇宙からの写真をお楽しみ下さい。


旅行中に撮った野鳥
旅行中に鳥の写真を撮りました。
名前がよく分かりません。何方かご教授下さい。



18日; 

 13:20
成田より
JAL417直行便でミラノへ

     空路上は全て快晴。シベリアの大地やアルプスの山々を眼下に見ながらの快適な旅でした。














 18:45
 ほぼ定刻にミラノ空港着  バスにてホテルへ
    イタリアは夏時間を採用していて、午後8時を過ぎても太陽が見えます。

    ミラノ泊(MILANO TRE CLUB RESORT)
    

19日;  快晴

    朝は6時を過ぎても陽が昇ってきません。


 ミラノ市内観光;  Top へ

   ミラノは紀元前600年のケルト人の町を基にしています。
   現在は人口約130万人とイタリア北部最大の都市です。4世紀後半の司教アンブロジウスと皇帝
   テオドシウス1世の時代には一時期西ローマ帝国の首都でもありました。

 ドゥオモ見学

    ミラノのシンボル的存在のDuomo〈ドゥオモ〉。イタリアのゴシック建築を代表する大聖堂。
    これでもかこれでもかと言わんばかりの沢山のとがった屋根が目につきます。
    最も高い屋根の上には、金ぴかのマリア像が掲げられています。

    
   内部にはいると美しい数々のステンドグラスが目を引きつけます。


 オペラのスカラ座を見学(オプション)

   訪問時の夜はバレー(眠れる森の美女)を公演していましたが、昼間はオペラのリハーサルを
   行っていました。従って内部には入れず、最後部のボックス席の窓からガラス越しの見学となりました。
  (写真撮影不可)
    

 ビットリオ・エマヌエーレ2世アーケード
   ドゥオモのすぐ近くにある 1877年に完成したというアーチ型ガラス天井のアーケード。
   スカラ座に通じています。プラダなどの高級店や、マクドナルドもあります

     

 ブレラ美術館見学
(写真撮影不可)

   サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ教会のダビンチ作の「最後の晩餐」が見学の予約が取れず、
   代替えとして見学

   一階が美術学校、中庭にカノーヴァ作『ナポレオン像』があります。

   アイエツ作『接吻』等を鑑賞

    

  市内観光後バスにてベニスに移動(約280
Km 約3時間30分)

  ベニス泊 (MERUDIANA)



20
日;
 快晴


  ベニス市内観光 チャーター船にて市の中心部に移動        Top へ


    ベニスは古来はラテン語でウェネティ人の土地を意味し、ウェネティ人が住んでいたアドリア海の
    奥に拡がる土地をウェネティア(Venetia)と呼んだ事から来ています。
    中世にはヴェネツィア共和国の首都として盛えた都市で、「アドリア海の女王」「水の都」
   「アドリア海の真珠」など、数々の名声を我が物にしてきました。


 
ゴンドラ遊覧
   6人ずつに分乗し運河を散策しました。古い町並みを船からみて歴史を感じました。
   

 ドゥカーレ宮見学
(内部撮影可、美術館は不可)

   ベネチア共和国の総督が住み、立法、行政、司法の中枢だった建物。9世紀に建てられましたが、
   改築され、15世紀に現在のものとなりました。外観はゴシック様式で、白とピンクの大理石で造られて
   います。
   内部の部屋はベネチア派画家の見事な絵画で飾られていて、特に2階の大評議室の間にある
   縦約7メートル横約25メートルのティントレットの「天国」の油絵は必見。ほかにも歴代総督76名の
   肖像画を見ることができ、ベネチア公国の華麗な時代がしのばれます。
   宮殿と運河を隔てて橋で結ばれた牢獄があります。有名なこの橋はハイネにより「ためいきの橋」と
   名付けられました。
   宮殿の裁判で有罪になると、罪人はこの橋を渡り、二度と出ることができないといわれた牢獄ヘ移送
   されました。罪人は橋の小窓から見える美しいベネチアの風景に、「もうこれでベネチアの街とも
   お別れか」と絶望のため息をついたことから、この名がついたとも言われています。現在では牢獄は
   使われていないので、罪人と同じようにドゥカーレ宮殿から橋を渡り、牢獄を見ることができます。
   暗い牢獄を見ると、罪人の絶望的な気持ちが胸に迫ってきます。
   実際はこの牢獄に入れられたのは罪の軽い者だけだったとの事です。従って再びベネチアの町を
   見ることが出来たはずです。   

  

 サンマルコ寺院

   新約聖書の福音書記者のひとりで街の守護聖人マルコの遺体を納めるために造られました。
   外観はアラビア風の丸い屋根をもち、内部はモザイクや金箔で飾られている聖マルコを守護聖人として
   祀る、ロマネスク・ビザンチン建築の寺院。美しい5つのクーポラがそびえるきらびやかな建物で、
   内部のアーチには緻密な黄金のモザイクが施されているそうです。
   もの凄い行列があり、残念ながら時間の関係で内部の見学が出来ませんでした。
  

 サン・マルコ広場

   3方向を大理石の柱廊で囲まれた美しいサン・マルコ広場はベネチアのシンボル的存在です。
   多くの旅行者がここをベネチア観光の基点としています。広場には、高さ96メートルの鐘楼、
   聖マルコ寺院、ドゥカーレ宮殿などが建っています。
   広場には2万羽を超すと言われるハトが居ます。また上空にはウミネコが沢山飛んでいます。
  

 ベネチアガラス工房見学

   イタリアの工芸品で有名な物はベネチアのガラス細工と貝の彫刻カメオです。
   ベネチアのガラス細工はサンマルコ寺院のモザイクを製作する技術が発達した物と言われています。
   有名なガラス工房を見学し、素晴らしい作品の数々を見せてもらいました。
   職人が目の前で花瓶と馬を作るデモをやってました。
  
 

  ベニス市内観光後船・バスにてフィレンツェに移動(約251Km 約3時間45分)

  フィレンツェ泊 (ART HOTEL MIRO)



21
日;
 快晴
    バスにてシエナに移動
(約685Km 約1時間20分)   Top へ


 シエナ

    シエナはイタリア中部のトスカーナ州にあり、三つの丘に広がる人口約7万人の中規模の
     都市です。

    11世紀半ばには都市国家に成長しました。シエナの発展を支えたのは商人と銀行家であり、
    町の政治が貴族に牛耳られるようなことはありませんでした。
    今も当時の銀行を起源に持つ銀行が存続しています。日本で言えば室町時代ぐらいです。
    文化的にはシエナはゴシックの街です。

    ローマを建国したロムルスの双子の兄弟のレムスが兄に殺されて、その息子のセニウスと
    アスキウスが、神から与えられた白馬と黒馬に乗って北方に逃れてシエナを建設したと
    言われています。
    シエナはそのセニウスの名に由来しています。シエナの紋章は白と黒の組み合わせで
    作られていますが、白馬と黒馬は起源不詳な紋章に後から由来をこじつけたものとも
    いわれています。
    ロムルス・レムスの兄弟はオオカミに育てられたという伝説があり、シエナ市内にはオオカミと
    兄弟の像が多々あります。
 

  

 ドゥオモ見学

    「ゴシックの街シエナ」のシンボルの一つが、シエナのドゥオモです。イタリアにゴシック教会は多い
     そうですが。その代表がシエナのドゥオモとのことです。

  

 カンポ広場
    シエナのシンボルは、街の中心部にある「世界で最も美しい広場」と言われている
    カンポ広場です。カンポとは「広場」を意味します。すり鉢状に傾斜した扇形の広場であり、
    周囲には中世の建造物が並んでいます。
    レンガが敷きつめられ、石の帯によって9つの部分に分けられています。これは、この広場が
    整備された1347年当時、『ノーヴェ』と呼ばれる9人制の評議会によってシエナの政治が理想的
    に運営されていたことを象徴していろそうです。
    カンポ広場では、毎年7月2日と8月16日に、荒馬競馬で有名な伝統的お祭りパリオが開催されます。
     シエナの17の地区の代表者が色鮮やかにデザインされた町の旗と楯を振りかざし競争する町対抗の競馬です。


   気がついてみたらカンポ広場のまともな写真は見あたりません。
 

 シエナ観光後バスにてピサに移動(約165Km 約2時間30分)


「ピサの斜塔」等を見学
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   「ピサの斜塔」で有名なピサ大聖堂を訪ねました。
   ピサ大聖堂の鐘楼である「ピサの斜塔」は1174年に建設され、その創建当時から地盤沈下により
   毎年少しずつ傾斜し続けてきました。高さは地上55m、重量は14,453tあるのに、基礎は4mしか
   掘られていないとのことです。一度は危険防止のため出入りを禁止されてきましたが、2001年6月
   10年に亘る長期改善工事が終わり、内部公開が再開されました。
   またこの斜塔はガリレオ・ガリレイが物体が自由落下するときの時間は落下する物体の質量には依存
   しないという法則を実証するために、斜塔の頂上から大小2種類の球を同時に落とし、両者が同時に
   着地するのを見せたとされていますが、この話は実際には行われていないとされています。

  

 ピサ大聖堂
   「ピサ大聖堂」はロマネスク様式の最高傑作といわれている大聖堂です。
   ファサードの列柱を細かく配した回廊が印象的な大聖堂です。
   ドゥオーモ内部には天井からはガリレオが振り子の原理を発見したといわれる「ガリレオのランプ」が
   吊り下げられています。後陣丸天井にはモザイク画「玉座のキリスト」、キリストと洗礼者聖ヨハネ、
   聖母マリアが描かれています。 見上げた天井の黄金の格子天井も素晴らしいです。
   外壁の石材はリサイクル品が多く使われており、逆さに文字を彫り込んだ大理石等が多く見られました。
  

   


 市内観光後バスにてフィレンツェに移動
(約80Km 約1時間30分)

 フィレンツェ泊 (ART HOTEL MIRO)



22日; 快晴                 Top へ


 フィレンツェ市内観光


    古代ローマ時代花の女神フローラの町としてフロレンティアと名付けた事が語源とされています。
    イタリアのトスカーナ州フィレンツェ県に属する人口36万人の都市です。
    ルネッサンス発祥の地であり、ダンテ、ミケランジェロなど歴史上の著名人を思い浮かべると
    きりがありません。
    フィレンツェを思うときメディチ家の存在を忘れることは出来ないです。薬屋を営んでいた
    メディチ家はルネッサンス開花に大きな影響を与えました。ギリシャや古代ローマに新しい
    精神を見出させ、フィレンツェの町自体では、忘れられていた人文主義の中心地として発展
    していきます。絵画に現れる肉体は解剖学に裏付けられた筋肉を持ったものが描かれるように
    なりました。
    レオナルド・ダ・ヴィンチは、メディチ家の寵愛を受け、彼らのために多くの作品を製作しました。

 ミケランジェロ広場

    ミケランジェロの「ダヴィデ像」のレプリカを中心に、フィレンツェの街を一望できる
    小高い丘にあります。

   

 ウフィッツェ美術館見学
(同美術館所蔵のダビンチ作「受胎告知」は東京国立博物館に貸与中
   メディチ家のコレクションと言われる名画の数々が素晴らしい部屋に展示されています。
   1737年にメディチ家は子孫が絶え、断絶した。最後のメディチは、アンナ・マリア・ルドヴィーガという
   女性でした。彼女は遺言で「メディチ家の代々が収集した膨大な美術品の全てを何物もフィレンツェから
   持ち出さない」というものでありました。この言葉に従って絵画や美術品の全てはフレンツェにあります。
   ダビンチ作「受胎告知」は行き違いで日本に来ておりましたが、それに足りる十分な質量の美術品を
   鑑賞できました。
   ボッティチェリ作「ビーナスの誕生」「春」、TIZIANOの「ウルビーノのビーナス」等々、美術の
   教科書に出てくる絵画が数多くあります。


   予約をしていないと簡単に見学・鑑賞が出来ません。
  

  


 ドゥオモ

     ミケランジェロ広場から見てひときわ目立ったフィレンツェの中心に建つドゥオモ、
    サンタ・マリア・デル・フォーレ大聖堂は、13世紀末に建てられたフィレンツェの象徴とも
    いえる建物で、クーポラの高さは100mを超えます。白と緑とピンクの大理石で飾られた幾何
    学模様の美しいゴシック建築です。
  

    ドゥオモの前には、八角形のサン・ジョヴァンニ洗礼堂があります。青銅製の門扉のレリーフが
    有名です。その隣が14世紀に建てられた高さ84mのジョットの鐘楼です。
   


 市内観光後バスにてアッシジに移動(約170
Km 約3時間)        Top へ

   田園の広がるスバシオ山の中腹にアッシジの町があります。アッシジは紀元前1世紀のローマ
   時代に街の形ができていました。
   アッシジには聖人の遺体を安置したサン・フランチェスコ大聖堂、キアラ女子修道会を創立した
   聖女キアラが埋葬されるサンタ・キアラ教会(1257)あります。
  


 聖フランチェスコ聖堂見学

    馬小屋で生まれ、晩年には手足と脇腹にイエスと同じ聖痕(スティグマ)が現れ聖人となった
    と言われるサン・フランチェスコの遺体を安置してあります。
    フランシスコは1210年ローマ教皇謁見し、修道会設立の許可を得ました。フランシスコ会は
    例外的に教皇から承認されて発展していきますが、これに倣ってその他の修道会が次々に誕生し、
    それらの中から教皇が選ばれるようになっていく起点となりました。
    サン・フランシスコ聖堂の下部聖堂には、彼の遺体が納められた石造りの棺が安置されています。
    上部聖堂にはルネサンス期の巨匠ジョットの代表作である「聖フランシスコの生涯」と題する
    壁画があらます。
  

  


 市内観光後バスにてローマに移動
(約186Km 約3時間)

 ローマ泊 (PINETA PALACE)


23日; 快晴 雷雨


 バスにてナポリに移動(約250
Km 約3時間)        Top へ

 バスにてナポリ市内観光(治安の問題で徒歩の観光は出来ず)
   「ナポリを見てから死ね」と言われるほど風光明媚な土地としても知られています。
   ナポリ市は、紀元前6世紀古代ギリシア人の植民活動によって建市されたと考えられています。
   ナポリの語源はギリシア語のネアポリス(新しい町)からきています。
   治安の関係でバスにての観光となりました。ナポリの暴力・犯罪組織カモッラは有名です。
   港には豪華船が入港しており、いかにも港町らしい景色でした。
  

  

 バスにてポンペイに移動(約250Km 約3時間) 晴れ=>雷雨       Top へ

               ポンペイ第2の最後の日を思わせるような猛烈な雷と雨

 ポンペイの古代遺跡見学
   ポンペイは1世紀までナポリ近郊にあった都市国家です。ヴェスヴィオ火山の大噴火により、
   79年に壊滅しました。18世紀に発掘が開始され、現在は主要な部分が有料で一般公開されて
   います。その遺跡は世界遺産になっています。
   末期はローマの属国となり、ローマ人の余暇地として栄えました。最盛期の人口は約2万人と
   言われています。噴火で市民の大多数はローマなどに逃げたが、2千人位の人が犠牲になった
   と言われています。
   都市は上下水道が完備され、上水道は鉛管で給水されていました。道路は馬道と歩道が分かれ
   ており所々には横断歩道も設けられていました。
   舞台、競技場、パン屋、酒蔵(ワインの製造)、バー、公衆浴場、更には売春宿もありました。
   今の都市と何ら変わるところがありません。

  
   ヴェスヴィオ火山をバスの車窓から撮りました。右は競技場跡です。

  
   
馬道と横断歩道があり、U字溝も見られます。右は馬の手綱を結ぶため、岩に穴を開けたものです。                         
 
 
  発掘された人間です。火山灰の中に埋もれて骨だけになり、周りが空洞になっていました。
   その空洞に石膏を流すと人の形になります。 
   右は町並み
で、歩道と馬道が分かれていたことがはっきり判ります。

  
   
売春宿のカタログでテクニックを書いたものです。

  
  
 売春宿の石のベッド。客が永居をしないようにベットは石で造ってあったそうです。 右はバーの
   カウンターで、穴の中にはいろいろな葡萄酒のカメがありました。


 
  
 水道の鉛管、 右の写真はパン焼き釜でピザの様なものを焼いていたようです。

  
ポンペイ遺跡の一番奥の「秘儀荘」に足を伸ばしました。
  この途中で急に雷が鳴り出し強烈な雷雨となりました。ヴェスヴィオ火山がまた噴火でも始めるのかと
  不安を感じました。

 
 
   
左の写真は土砂降りの様子です。  右の写真は葡萄酒を造るための道具でレプリカです。

  
   
葡萄酒を貯蔵するカメです。  右は「秘儀荘」と呼ばれる由縁の部屋の壁に書かれた不思議な
   儀式の絵です。女の子が何かの役目を司り儀式が行われている様子が書かれています。



 カメオ工房を見学
  
 イタリアの有名工芸品の一つ、カメオ工房を見学しました。
   歳をとった職人が手作業で貝殻にあの独特な模様を彫っていました。
  

   貝殻に彫られた模様を持つ行灯。右は貝を彫るノミでタコだらけの手を示す職人。


 観光後バスにてローマに移動
(約300Km 約3時間30分)

 カンツォーネを聴きながらイタリア最後の晩餐
   イタリア民謡の数々を歌ってくれました。
   リクエストに応えて日本の歌曲や歌謡曲まで歌います。(チップ;5ユーロ)
  

  


 
ローマ泊 (PINETA PALACE)



24日; 快晴


バチカン市国観光             Top へ


   周囲をイタリアのローマ市に囲まれた世界最小の主権国家です。
   ローマ教皇が暮らし、ローマ教皇庁によって統治されています。カトリック教会の中心地で、仏教で
   言えば「総本山」に当たります。
   面積0.44平方Km、人口961名(2004年)です。ほぼ東京ディズニーランドと同じ面積です。人口には
   スイス人衛兵もバチカン市民として含まれています。


   バチカンに美術館を通して入国するには、予約をしておいた方が良いです。フリーですと可成り待た
   されるようでした。私たちは9時の予約で入ることが出来ました。

 
博物館見学


 システィーナ礼拝堂見学(最後の審判)

   バチカン宮殿内に建てられた礼拝堂です。1512年に完成したミケランジェロの代表作のひとつに
   数えられる「最後の審判」の壁画が有名です。
   また天井部中央の旧約聖書「創世記」の12場面、天地創造、楽園追放、大洪水などが、祭壇から
   後陣にかけて配列されています。
   教皇を選出するコンクラーヴェの会場としても知られています。

   
バチカン博物館から「松ぼっくりの庭」に出て、シツティーナ礼拝堂の「最後の審判」の
   レクチャーをガイドより受けます。
   300mの回廊を通り、システィーナ礼拝堂に向かいます。回廊には多くの彫刻品と、当時の地図が
   南を上にして描かれたもの等が陳列されています。
  

 

 

 

 サンピエトロ寺院見学

   最初の大聖堂は、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世の指示で建設されたバシリカ式教会堂です。
   
建設は330年頃に着工され、390年頃までに完成しました。一列22本の列柱によって構成された5廊式
   バシリカは90m×64mの大きさであり、当時すでにヨーロッパ最大の教会堂でありました。

   
最初のバシリカ式教会堂は、15世紀中頃には老朽化のため倒壊のおそれもあると指摘され、教皇
   ニコラウス5世は応急措置として修復工事を行いました。 現在見られる大聖堂の建設は、1499年に
   教皇アレクサンデル6世がサン・ピエトロ大聖堂の改築を思い立ち、1505年に教皇ユリウス2世によっ
   て改築の決定が行われたことによって始まります。
   現在の主ドームを作るに当たってはミケランジェロをはじめとする当時の多くの有名な建築家が
   携わりました。それほど大きく大事業であったわけです。1593年に一時完成を見ましたが全て完成
   したのは1667年となりました。
   建築はルネサンス期に始まり完成を見たのはバロック期になってからと言うことになります。
   この大聖堂の膨大な建設費用を調達するためとして贖宥状(いわゆる免罪符)が発行され、ルターに
   よる宗教改革の直接のきっかけになりました。

   中には、絶えず信者が訪れるミケランジェロの「ピエタ像」や「聖ピエトロ像」、天蓋に囲まれた
   主祭壇などがあり、カトリックの総本山にふさわしい造りとなっています。
   「ピエタ像」は入って直ぐ右側にあります。信者や観光客でごった返しています。当然スリの最も
   多い場所だそうです。罰当たりですね。「ペテロ像」にも触れる人の行列が出来、監視人が交通整理
   をしています。少し立ち止まっただけで通過するように催促されていました。
   中に入って後陣の前で上を見るとドームを見上げることになります。最後部が180m以上あると言われ
   吸い込まれるような気がします。
   内部は全面的に撮影が許されております。これは油絵が全くなく全てガラスモザイクで作られた絵
   であるためです
またモザイクで十分美が表されているので、他の寺院のようにステンドグラスは
   全く見あたりません。

   
大聖堂を出ますスイス人衛兵が二人で立っていました。ミケランジェロがデザインしたと言われる
   派手な制服を着ています。(単なる伝説だそうです)そこを通り過ぎてサンピエトロ広場に出ます。
   

 
   
サンピエトロ広場を通して見た大聖堂
   手前の金属性の柵が国境です。
   中央右にあるオベリスク(尖塔)は、紀元前37年にエジプトからローマに運ばれてきたもだそうです

 
  
 
 左からドーム、「ピエタ像」、「ペテロ像」

 
  
ミサのようです。 よく見ると左側の聖職者はデジカメで写真を撮っています。

  
  
サンピエトロ広場の左右に円を割った形の巨大な柱が立っています。左右対称に柱列回廊が配され、
  その柱は4列になり合計は284本
です。円の中心部に立つと同心円状に配された柱が1本に見える
  そうですが、訪ねた当日は工事により広場の中心部には入れませんでしたにで、確かめられません
  でした。


 
 
   
バチカンの衛兵は伝統的にスイス人が勤めています。キリスト教徒であることは勿論ですが、身長
   制限があるそうです。
   右の写真はバスの車窓から撮ったものですが、バチカンのアマチュア無線のアンテナかもしれません。
   HV0Aと言うコールサインの局が出ており何回か交信をしたことがあります。
   またバチカンにはバチカン放送があり短波で世界中に放送をしています。昔、良く聴いたものです。



ローマ市内観光;                  Top へ
   
伝説によれば、ローマは紀元前753年4月21日に上記シエナのところで名前の出た、ギリシャ神話の
  英雄アイネイアスの子孫である、双子のロムルスとレムスにより建てられました。ロムルスはレムスと
  ローマを築く場所について争い、前述の様にレムスを殺しました。その後、ロムルスは7代続く王政
  ローマの初代の王となり、またローマの市名の元となったとされています。
  史実としては、ローマの起源は、紀元前8世紀もしくは9世紀ごろに北方からイタリア半島に移動して
  きた民族が、テヴェレ川河畔に定住したことにさかのぼると考えられています。
   現在はイタリアの首都で人口は約282万人(2005年)で、イタリアで最も人口が多い都市です。
  その歴史の深さと美しさから『永遠の都』と称されています。出典: フリー百科事典『ウィキペディア
  (Wikipedia)』
 

 
ホテルより見た朝のローマ市

 コロッセオ見学

   コロッセオ (Colosseo)は、古代ローマ時代の建造物。ローマ帝政期に造られた円形闘技場で現在
   ではローマを代表する観光地になっています。
   工事はウェスパシアヌス治世の75年に始まり、ティトゥス治世の80年から使用されるように
   なりました。完成したのはドミティアヌスの治世中です。
   
長径188m短径156mの楕円形で高さは48mで45,000人を収容出来た。また、天井部分は開放されて
   いますが、日除け用に布を張る設備がありました。皇帝席には一日中直射日光が当たらないように
   設計されており、また一般の観客席についても一日に20分以上日光が当たらないように工夫がなさ
   れていました。
  


 
   パラティーノの丘の遺跡群
   同行者が「スリ」や「引ったくり」の被害を受けました。この地区は特に此の類の犯罪が多いという
   ガイドさんの注意にもかかわらず、遣られました。
   一人は不注意でお札をズボンのお尻のポケットに入れていたものを、全く気づかず持って行かれました。

   一人の女性は肩に掛けていたポーチをひったくられそうになり、大声を上げたため未遂に終わりました。
  


 
トレビの泉見学
   ローマと言えば誰もが必ず訪ねる観光名所です。、ローマにある最も巨大なバロック芸術の最高
   傑作と言われている泉です。
   
紀元前19年に造られたヴェルジネ水道の終端施設としての泉が場所を替えた後、今の位置にな
   りました。
   その後、泉はローマの建築家ニッコロ・サルヴィの設計で改造、彼の没後の1762年に完成しました。
   今も当時の水道を使い山から引かれたそのままの水が流れ込んでいます。
   「泉に背を向けてコインを1枚投げ入れるとローマに再び来られる」と言う伝えは有名です。
   今はコインを2枚投げると恋が成就し、3枚では恋人と別れられる、と言っていますが、
   ガイドによってその言い方は違うようで、2枚以上の話はあまり当てになるものではありません。
 


  


 スペイン広場見学

   「トレヴィの泉」と並んでの観光名所が「スペイン広場」です。映画「ローマの休日」で、
   オードリー・ヘプバーン扮する王女がジェラートを食べたシーンでもおなじみの場所として
   有名になりました。ローマには映画で有名になった場所がいくつかありますが、ここはその中でも
   最も有名でしょう。
   17世紀に階段右手にスペイン大使館があったことからその名が付いたと言われています。
   ベルニーニ作の「バルカッチャの噴水」のある広場とトリニタ・デイ・モンティ教会に登る137段
   の階段からなっています。階段を登とショッピングの聖地・コンデッティ通りが一望できます。

   ちなみに「ローマの休日」で舞台となった「真実の口」や警察署はバスの中から説明を受けました。
 

  
  此の泉の水は生で飲めると言うことで、皆さん飲んでいましたが、さすがに日本人で飲んだ人は
  いなかったようです。

 
21:45 ローマ(レオナルド・ダビンチ空港)より直行便JAL400にて帰国

   レオナルド・ダビンチ国際空港の夕照。 太陽は地平線に沈んでいきました。
   現地時間午後8時32分です。
   右は帰国の搭乗機です。
  
 

25日; 雨


 16:55 雨の成田着




追 記;          Top へ

  1.治安
    イタリアは特に治安が悪いと言われていました。凶悪な犯罪はない様ですが、スリ、
        置き引き、引ったくり等物を盗られる犯罪が多いようです。
    我々のツアーでも可成り警戒と用心をしていたのですが、一人は現金を盗られ、一人は引った
    くり未遂を受けました。

 
  2.写真撮影;
    基本的に美術関係の撮影は禁止されてます。しかし絵画でもモザイクの物は、たとえフラッ
     シュがたかれても作品に悪影響を与えないので許可されます。特にシスティーナ礼拝堂
     写真撮影に対する警備が厳重でした。


  3.街の様子;
     一般に街は汚いです。路上駐車は至る所、2列駐車もザラです。交通マナーもあまり良い
     とは言えません。
     街中にある信号機や道路標識は非常に見やすくなっています。信号機は歩く人が見上げ
     なくても正面に見えるよう低く設置してあります。赤信号は他の色に比べて2倍の大きさが
     あり目立ちます。

     路上や街角には至る所にゴミが捨ててあります。
     海はベニス、ナポリ共に酷く汚れています。油膜がありゴミが沢山浮いて居ます。
     ベニスの宇宙からの写真を見ると、海の汚染の様子がよく分かります。
     日本に帰りたまに路上にゴミが散乱していると、家内は「イタリアみたい」と言ってしまい
     ます。

     水とトイレは只ではありません。レストランでも水は有料です。
     トイレも有料です。公衆トイレは少ないです。たとえあっても全て有料です。
     50セントから1ユーロが必要です。 もっぱらお土産屋かレストランのトイレを使わせて
     もらいます。さすがこれらのトイレは無料です。

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